2016年6月12日日曜日

巻4(4) 茶の十徳も一度に皆

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誠意とバランスは大切。度を過ぎたケチは身を滅ぼすお話

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越前の国敦賀(福井県)の港は毎日の入舟が多く、一日の平均の入港税が大判金一枚にものぼるということである。

これは淀の川舟の運上金とかわらない額である。

ここは各種の問屋の繁盛している所である。ことに秋になると、気比神社の市の仮小屋が立ち続き、まるで目の前に京の町を見るような賑やかさで、男の中に立ちまじわる女の身なり・衣装もととのっていて、その気風は北国の都といわれるうだけのことはある。

旅芝居もここを目当てにし、巾着切りも集まってくるのだが、今どきの人は賢く用心して印籠ははじめから下げず、紙入れも内懐に入れるので、スリも手が届かない。

こういう混雑の中でも銭一文とてタダでは取ることは出来ないので、盗人仲間も暮らしにくくなったものだ。

それにつけても、ともかく正直に頭を下げて、その場その場の客でも丁重に旦那扱いにして、諸国の買出し商人を招く商いの上手の者は世渡りに困ることはない。

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この町はずれに、小橋の利助といって、妻子を持たず、我が身ひとつをその日暮らしにしてる利口な男が住んでいた。

荷い茶屋を小奇麗にこしらえ、その身はたすきをかけて、括り袴もかいがいしく、烏帽子をおかしげにかぶって、ひょうきんなえびす様の格好をして、人より早く朝市の立つ町に出て、「えびすの朝茶」と触れ歩くと、商人は移り気なもので、縁起をかついで咽喉の渇かぬ人までもこの茶を飲み、たいてい12文ずつ投げ入れてくれたので、日毎に儲かり、ほどなく元手となる資金をこしらえて葉茶店を手広くはじめ、その後は大勢の手代をかかえた大問屋となった。

これまでは自分の働きで金持ちになったので、世間からはほめそやされ、一流の町屋から婿にも望まれたが、「一万両の身代にならぬうちは女房を持つまい。40まで延ばしても遅くはない」と、家庭を持った場合に掛かる費用を計算して独身を通し、ただ銀のたまるのを慰みに淋しく年月を送っていた。

そののち、みちにはずれた悪心がおこり、越中・越後に手代どもをつかわして、捨てられてしまう茶の煮殻を買い集め、それを京都の染物に用いるのだと称していたが、実はこれを飲み茶の中に混ぜて人知れず売り出したので、いったんは大変な利益を得て大儲けした。

しかし、天がこれを咎め給うたのであろうか、この利助はにわかに狂人となって、自分から我が身の悪行を国中に触れまわり、「茶殻茶殻」としゃべり散らしたので、「さてはあの身代を築くようになったのも、いやしい心からだったのか」と、人のつきあいも絶え、医者を呼んでも来るものがなく、自然と体も弱っていって、湯水も咽喉を通らなくなり、すでに末期が近づいたときに「今生の思い晴らしに茶を一口飲みたい」と言って、涙をこぼした。

お茶を目の前に見せても、因果なことには喉が詰まって通らず、いよいよ息も絶えようとした時、内蔵の金銀を取り出させて、足元や枕元に並べさせ、「俺が死んだらこの金銀は誰の物になるのだろう。思えば惜しい、悲しい」と、それにしがみつき、噛みつき、流す涙には真っ赤な血が混じり、顔つきはさながら角のない青鬼のようであった。

幽霊のような姿で家の中を飛びまわり、気絶したところを押さえつけると、また蘇って、銀をたずねることが34、5度にも及んだ。後には奉公人たちも愛想が尽きて恐ろしくなり、病人の部屋を見舞う者もなくなってしまったが、どうにかやっと台所に大勢あつまり、護身用の棒や、ちぎり木を手に手に持って見横えながら、2、3日も物音がしないようになってから、大勢で立ち重なってのぞいて見ると、金銀にかじりつき、目を見開いて死んでいたので、人々は皆魂も消し飛んでしまった。

そのまま死骸を籠に押し込んで、火葬場へ送っていくと、折のからの春ののどかな日であったのに、にわかに黒雲が巻き起こり、車軸のような大雨は平地に川を流し、風は枯木の枝を吹き折り、雷火がひらめき落ちて、利助の死骸を火葬にする前に奪っていったのであろうか、空の乗物だけ残っていた。

人々はまのあたりにこの火宅の苦しみを見て逃げ帰り、みんな仏の教えに帰依する心を起こしたのであった。

その後、利助の跡取りに遠い親類を招いて遺産を渡そうとしたが、こうした有様を聞き伝えて身を震わし、箸一本さえ取る者がない。

奉公人たちに「分配して取れ」と言っても、「すこしも欲しくない」と言って、この家で仕着せにも立った衣類までも置いて行って出ていく始末であり、こうなると物欲の塊のような人間もたわいのないものであった。

仕方がないので、全て売り払い、その代金を残らず菩提寺に納めたところが、住職は思いのほか仕合せというばかりに、これを仏事には使わず、京都に上って野郎遊びに打ち込んだり、あるいは東山の色茶屋を喜ばせたりしたのであった。

また利助のほうは死んだ後でも、ほうぼうの問屋をまわり、年々たまった売掛金の残りを取って歩いたというが、なんとも不思議なことである。

問屋でも利助が死んだとは承知していながら、生前の姿でやって来るので恐れをなして、銀貨の目方を軽めにしてごまかすことなく、いちいち量って支払うのであった。

このことが評判になって、利助の住んでいた家を化け物屋敷だと言い出し、タダでも貰う人がなく、崩れ放題に荒れ果ててしまった。

これらの事を見るにつけ、たとえ利益があるにしても、はじめっから計画的に流すつもりの抵当で金銀を借りたり、さまざまな偽物をつかませたり、詐欺師とグルになって持参金付きのにょぼうを貰ったり、寺々の祠堂銀を借り集めておいて破産したとしてすましたり、ばくち打ちの仲間入りをしたり、山師家業をしたり、偽物の朝鮮人参の押し売りをしたり、つつもたせをしたり、犬殺しをしたり、乳呑に子を貰って餓死させたり、溺死人の髪の毛を抜いて売ったりするなど、いかに生活のためだからといって、こんな人の道に外れた仕事をするというのは、たまたま人間に生まれても、いきてゆく甲斐はない。

何事もその身に染まってしまうとどんな悪事でも自分ではそれと分からなくなってしまうものだ。

そうなっては大変残念なことだから、世間並みの世渡りをするのが人間というのものである。

考えてみると、夢のようにはかない50年そこそこの人生なので、どんな商売をしたからといって、暮らしのできないはずはないのだ。